24

今から23歳の振り返りをする。
つい10分ほど前に24歳になったので

数日前まで、自分への誕生日プレゼントは何にしようかと考えていたが、この一年こそが自分への誕生日プレゼントだったんだと確信するほど、完璧な一年だった。
悔いもなく、未練もない。不安もない。
今ふわふわの布団の中で、満腹の腹で、シャワーを浴びたあとの清潔な気持ちで、大好きな執筆という形で、一年の振り返りができることがまず幸せだ。そして思いがけずたくさんの人に祝ってもらえて、とんでもなく幸せだ。誕生日を誰かにあらかじめ覚えていてもらって、祝ってもらえたのは本当に何年ぶりだろうか。本当にうれしい。ありがとう ありがとう ありがとう

ここからはつらつらと、この一年間で気がついたことを書く。
私は、これまでずっと自分じゃない誰かの人生を歩んでいるみたいだった。本当のことを語っていても、嘘をついているみたいで、罪悪感と後悔でいっぱいだった。私の考えも、セクシャルも、家族愛も友情も、生きながらに死んでいた。ずっと私の四肢は不自由で、どんな人と一緒にいても、手は繋いでもらえないのに、首輪は付けられたような感覚だった。何一つ自分で決められなかった。あるいは私だけが、物事を決定することを法律で禁じられていた。
けれど本当はもっとずっと我武者羅に生きたくて、お金が無いので明日の生活も分からない、常識も作法も全部忘れて、肉欲に溺れ、敵も味方も作らない自由な人間関係とそれに付随する最高の創作活動こそが人生そのものでありたかったんだ。

あらためて大人であることも自覚して、私を育てた人間に悪い人は一人もいなかったとも思う。母は完璧だった。それがどんな風に私をコントロールすることになろうとも、一生の呪いになろうとも、一人の人間の人格をねじ曲げるほどの愛情があった。私の中に最初からあったであろう異常性や加害性、その全てに蓋をしてくれていたのは母の完璧な愛のおかげだった。本当に愛されていたことを今更知った。
同時に自覚すればするほどに乖離していた自我と融合する感覚は快楽そのもので、私はこのまま誰も手を付けられない思考の化け物になってしまったらどうしようと考える日もあった。けれど、もしそういうところまでなれるならそうなってしまえばいい、ということで決着がついた。化け物になってしまったら化け物と付き合って、化け物を食って、化け物を飼い慣らす仕事をして生きていけばいいだけの話だ。

この1年はたくさん文を書けた。たくさん歌を歌えた。たくさん本を読めたし、たくさん一人旅ができた。きっと遺書の欠片を集める旅をしているから、言葉をたくさん記して、最後に書く文はこれまででいちばん丸いと思えた素敵な言葉でいっぱいにしたい。人生の最後の最後で最高の日記を書きたい。きっと他人はそれを遺書と呼ぶし、私もそれがどう呼ばれようが納得するだろう。あるいはもう死んでいるからどうでもいいだろう。そのくらいクレバーに生きたい。

24歳の目標とか、挑戦してみたいこととかは語らない。やってから報告する。やったあとは誰かに言わないと気が済まない。私はこんなことをして、こんな風に変わった!ということを、全国の茶の間のTVで流してほしいくらい人に伝えたくなる。だから必ず報告するので、安心してほしい。素敵な趣味を見つけて独り占めにできるほど寡黙なタイプでは無い。

贅沢にも私は夜明けの緑をさまよっている。大好きな小説なので、あの日執拗に追いかけてきた女と一晩くらい一緒に寝て、全身ドット柄になる性病患いの女として、アホな物語の主人公になってみるよ。

gahaha

 

私は、どんな人が見てもガハハ系の女だし、実際ガハガハ笑うし、むしろ「カ」に濁点がつく笑い方以外知らないくらいガハガハ笑うし、ガハハ系の女っていうより、「ガハハ家」の女だ。つまり家族全員がガハハという訳だ。

話が戻るけど、むしろ「カ」に濁点がつく笑い方以外知らないなら、「ガハハ」じゃなくて「ガガガ」じゃないか? あぁたしかに。ガガガだったかもしれない。私はガガガ系の女だ。ガガガ系の女…?つまりレディガガガ。もうこれはほぼレディ・ガガだし、ガガよりガがひとつ多いから私の方が強いガであることは確かだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

摩訶とmono(1)

 

きっとマーメイドだったから、邪悪。

グラウンドを走り回って、泥を身体中に塗布して、墓参りに行きたい。私の人生は、祖父の家の古時計の中くらいのスケールで、とても熱い。

いつか着てみたいSheglitのワンピース、私が着たら魔女みたいかも。悲しみの方が映えるお洋服だから。冬はケープコートに身を包んで、そのまま家電量販店のベッドの上にいるね。

全身真っ黒の私、心霊スポットより彼らを肩に連れている。長ったらしい小説が嫌いな理由、体育館の音をサブスクリプションに登録した時の著作権みたいな気持ち。もっと馬鹿になって読んで。あなたは馬鹿になる方法を知っている。

 

 

 

 

摩訶とmono (2)

私はストライプのシャツが良く似合う、眼鏡のあの子が大人っぽくて魅力的だと思っていた。

ストライプの彼女は、いつも一人でいたものだから、私はてっきり、彼女を自分のモノにしたと思っていた。

初恋の記憶から考えると、私はずっとそうなのだと思う。誰からも見向きもされないような女の子が大好き。何が素敵って、私しかその存在に気がついていないところ。

彼女は自分に自信がないから、男の子たちと積極的に話すこともしないし、Instagramの投稿が、一昔前のピースサイン

オタク体質だから、私のことを大好きになってくれる。絵が上手だから、私の絵を描いてくれる。今度メイド服を着て欲しいだとか、チャイナ服が似合いそうだとか言ってくるところは気持ち悪いけど、気持ち悪いところも大好き。

そんなに着てほしいなら早く買ってくれば?って言えば、でも、ドン・キホーテヴィレッジヴァンガードにひとりで行くのはこわいって言う。

私と喧嘩になった時に、すぐに謝っちゃうところも大好き。私に嫌われたくなくて、必死に話合わせてくれるのも大好き。

突然メイクやファッションを研究しだすのも大好き。これまではちっとも興味なかったのに、私のお気に入りのブランド、くさい香水、慣れないネイル、階段を降りる時、私の手を借りなきゃいけない面倒な靴。

私が貴女の存在を隠していることや、他の女の子たちに馴れ馴れしくすること、本当はどう思っているの?って聞きたくて仕方ない

 

 

 

アンティークと冬青

 

寝息がきこえる距離にいたのに、一夜にして知らない人になってしまうときもあれば、限られた一夜だけを、寝息がきこえる距離で過ごすこともある。

リンドウが咲くまでに新しい自分になりたかったのだけれど、半分まで脱皮した粘着質の膜が、足に絡まりついてしまって身動きがとれない。

新しいワンピースを買った。花柄が似合う女性になりたいと思いながら、ダブルボタンでハイウエストの黒いワンピースを買った。

異国に想いを馳せながらフィガロを読むときや、濃霧の中に浮かぶ大樹を想って、くるぶしがちくちくと痛むとき。難しい言葉を使ってしまったとき。長文で褒められてしまったとき。これらはどうして虚しい。

たくさん他人を感じてしまうと、体調に障る。ココアは甘すぎる、もう白湯でいいから。整体院で、砂利のような舌触りと、ヒノキの匂いを感じたのは本当なのに。

 

 

 

スペキュレイティブ・フィクション

 

 

恋人の温度だった、血というのは。縊痕は線路。憧れのBALMUNGの服、Deorartよりずっとかわいい。展示会へ行った。美術館も惜しみなく回った。記憶が喧騒する。時折、私を地面に叩きつけた。羊飼いのような気分でもあり、ホストのような気分でもあった、東京というところ。

 

結局のところどんな音楽も服従。P. ヴィットゲンシュタインは現代SNS上なら炎上したであろう、いつの世も、演奏家は作曲家の奴隷であることに変わりはない。そこで永遠になかよしこよしやってればいい。

夜中の2時になるとスリープするiPhoneに脅され続けているし、その時にしか味わえないものに人間は快楽を得る。単純で盲目な生き物。厄介な感情「怒り」。全ての物事の原動力になりうる。哲学だって始まりは怒りなのではないか、きっとそう。

 

恋人が女だとか男だとか、はたまたどちらでもないだとか、結婚できるとかできないだとかそんなことが裁判にまでなった時代があったなんて、冗談やめてよ

私はあなたと一緒で幸せ。永命権はいつ取れるの?ロボットと人間の結婚は、いつになれば法で認めてもらえるかな。本当に弱い人は、生きることに付随する全ての困難から逃げ回るような人のことだって、オイル零しながら泣いていた。

 

キラキラの思考概念がぼくの視界を満たす。きみの思考はわたあめみたいな味がするね。ぼく、甘いのが大好き。失笑というのはもともと、堪えきれずに笑ってしまうことなのだよ。ケッコン?それはなんだい。ぼくの思考概念ときみの思考概念を混ぜて枕に詰めよう。今夜はほかほかだね

 

ぼくの右耳から君の髪を挿入してくれ、これでぼくら ドラマを授かれるね。ぼくは少しサディスティックだと思っていたけれど、君の髪の先端は妙に

リナリア

 

あの女が嫌いだった。

あの女は、昆虫や花々に感動しないから。空や海を、多分愛さないから。ダークな音楽を聴くから。黒色ばかりを身に纏うから。部屋のベッドの隅に、死んだ薔薇が飾ってあるから。

ドライフラワーって、風水では良くないんだって」

「へぇ、なら変えなきゃ」

あの女は、獲物を狩るような鋭い視線でじっと見ていた。一瞬たりともドライフラワーの方なんか見ていないのに、そう笑った。また恥ずかしくなって話題を逸らしたとでも思われたのだろう。でも本当に風水では良くないの。

 

あの女は文学が好き。ものがたり珈琲を定期購読していて、いつも小説を読む時は、珈琲を飲んでいる。文藝春秋は勿論、ダ・ヴィンチ、群像、本の雑誌──これら文芸誌は、飽きられた女達のように、部屋の隅で山積みになっている。

あの女は美術館で名画を酷評するのが好き。あの女の生活のすべてはアートで溢れていて、きっとあの女にとっては私の存在も芸の嗜み。私とあの女の関係はアートなのだと、抱かれる度に実感する。

 

鼻腔を刺激するミントオイル、ベネズエラトンカビーンズ、ほんのりバニラ。あの女愛用のヴェルサーチのエロス。私の思考を破綻させていく匂い。全てが私をおかしくさせる。決してあの女のせいではなくて、この空間が、私を狂わせているだけだと思う。だからこの空間に見知らぬ異性と二人きりだとしても、私は服を脱げる、きっと、大丈夫。

 

あの女に貪られなくたって、私を求める人はいくらでもいる。だからあの女が言った「好きな人ができた」は、好都合だった。その相手が私より愛らしくて純朴そうな女性であったことも、私を抱く度に、あの女が私のことを見てないのがわかったのも、全部好都合だった。

「だからもう来ないで」

あの女が嫌いだった。

 

 

存在しない喫茶店のレビュー

 

京都の新京極通りから賑やかしい錦市場をずっと抜けて、15分ほど北へ上がると右手に薄暗い石畳の路地が出てくる。(薄橙色のモダンな石畳、ホオノキが生い立つ。5月頃には白い花を咲かせている。)路地の入口には婦人服を扱う気まぐれな店主の店があり、さらに奥へ進むと廃墟、そして突き当たりに古びれた小さなアトリエがある。

アトリエの名前は「Rosa Bonheur」 、フランスの男装動物画家、ローザ・ボヌールの名前を借りているらしい。アトリエの主人は9歳の時に日本へ。25歳で京都芸大を卒業したあと、その独創性が評価され、32歳の時にはイギリスで個展を開いた。ただし彼は飽き性で、最近だと筆を置いて、一日中豆を挽いているのだとか。

 

アトリエの中は、空き巣にでも入られたかのようだった。そこかしこに彼の芸術作品が並べられているが、観葉植物のフィカス・ウンベラータがそれを隠すように置かれている。平日だからだろうか、私以外に客はいないようだ。主人の低く不気味な声に従って、赤い一人がけのソファに腰掛けた。

テーブルはブラウンのシックなデザイン。けれどかなり古びれている。所々に傷がある。紙ナフキンとソルトが乗ったトレイを退けてみると、そこには「His paintings are odious.」  あいつの絵は憎らしい と刻まれていた。足元には彼が途中で投げ出したのであろう描きかけのキャンバスと筆が落ちていて、それが踝にあたっている。

 

いつの間にか背後にいた主人が、ぶっきらぼうな文字でメニューが書かれている羊皮紙を、何も言わずにテーブルに広げ、こちらをじっと見つめている。改めて見ると先生はお美しい。胸のポーラータイは、光の加減によって緑青色にも百緑にも見えた。

メニューは至ってシンプルだった。私はオリジナルコーヒーであろうカフェ・ボヌールと、フルーツサラダをオーダーした。主人はフルーツサラダを作るのは面倒だったのか、さぞかし不愉快そうに私を睨み、深緑色のカーテンの奥へ消えていった。

 

15分くらい経っただろうか。この歪な空間にいることにも慣れてきた頃、慌ただしいキッチンの音がやんで、主人がプレートを運んできた。私の前にコーヒーと、フルーツサラダ(勝手にオムレツプレートになっていた)を置き、ルシュを渡してきた。ここはフランス式なのね、私はその場でお金を払った。2400円と、まあぼったくりだ。主人はルシュを破ると、古時計の前のソファに腰掛けて、新聞を読み始めた。

 

オリジナルコーヒーは、美味しいとも不味いとも言えない味だった。こういうことをわざわざレビューに書くのはどうかと思うけれど、正直、普通。オリジナルというより、どこかで飲んだことがある、少し濃いめのエスプレッソ。

フルーツサラダ──が盛られたオムレツプレートの方は美味しかった。オムレツを食べる気なんてさらさら無かったけれど、これをメインに私はここまで来たのだと胸を張って言えるくらいには、絶品だった。ただ3口ほどで食べ終わるほど小さかったけれど。

それに肝心のフルーツサラダは、無味だった。

 

私は食べ終わると合図をして店を出た。店を出る直前に、もう絵は描かないのかと聞いてみたけれど、彼は眉をひそめて私を急かした。来週末もここへ来よう。その時はオムレツを頼もう、そしたらきっとカツサンドとかが出てくる。