いずれの人たちも抱きしめていかなければならない深い悲観とその震度について

 

だれも読まないブログを更新することが大好きだ。だからこそ本当のことが沢山書ける。小説を執筆する時間は気が向いた時、30分間と決めていて、私は現在、3つの物語を同時執筆している。ミルクティなのか、オレなのか、ココアなのかはどの物語の続きを創るかで変えている。

 

私が恐れるものは、主に3つある。他人の干渉による不自由と、喪失、私の欠片だけを拾われること。それらは全て執筆という形で消化され、抱きしめられ、しっかりと悲観されることで、恥じるほど誰かにぶつけたり、泣いたりしなくなった。

 

以前はひどい人間不信で、それに関する物語も執筆していたが、自分の中で''仮信頼''という制度を作り上げることで、その物語は不要になった。

''知らない人''→''知人''→''興味''→''仮信頼''→''信頼''→''友人''や''恋人''。この順を追って人と関わることで、どこで間違えても上手に引き返すことが出来る。

 

私はようやっと1人で生きていきたいという本能的な衝動と、誰かの手を借りて生きていかなければならないという、現実的でかつ理性的な教えの融合に成功しようとしている。お互いをお互いの熱で溶かし合い、ひとつの形として私の中に取り込もうとしている。

私の人生は、崩れては積み重なり、豪雨が屋根を作り、暴風が強靭な窓をつくっている。津波が舟を出し、火事が新たな土地をくれる。つまり思っているよりも寂しがり屋で、不器用なのだ。

 

特別になりたいわけではなく、私は私であり続け、私を最も理解し、愛してあげたいので、過去の悲観(一般的にはトラウマという言葉を使うべきなのだが、私はこの字面がとても嫌いなので使わない)に飲み込まれるべきではないといつも考える。人も恋も喪失も傷心も含めて、過去のことは、私にとって最も思い出されない古いページのひとつだ。思い出されない、というより、もう戻ってこないという感覚に近い。

本当はいつも、本能的で、魅惑的なエネルギーの突出を求めている。