薔薇よりも棘の美しさが愛おしい

 

わたしがここに記すのは、言葉で表現できる範疇の事象ではない。たしかに、人間である限り臆病は治らない。不安はランジェリーの如く、装着したくなくても装着しなければならないし、肌にまとわりついてくる。時には自分を磨いて磨いて磨いてやっと導き出した答えの先端を、ずっと苦手だったあの子に、ある突然踏み躙られることもある。それで気がつけば自暴自棄になって、自分勝手になってしまうこともある。けれど何度も自分を省みて、また新たな信念を掲げて、それらを愛するための努力と経験を積む必要がある。

よって死は救済ではなく、わたしにとってはただの時間制限だ。本当は全ての事象について心踊らせていたいのだけれど、これに関しては心底退屈。邪魔でしかない。唯一後悔することは、今回のわたしが人間というとても繊細で脆い器を借りて生まれてきてしまったこと。

 


自分の信念を掲げること、何度折られても野心尽きぬこと、そして折られる度に省みること。
わたしはこれらを怠っている人間にはやさしくする必要が無いと思っている。具体的には、叱ったり、助言をしたりするということ。
それがこの世で1番優しい行為だと思っている。だって他人なのだから、どこでどのように破滅しようと「ご勝手にどうぞ」 というところ。それを「あなたこのままじゃ破滅しますよ」なんて丁寧に教えてくれる世話焼きな人、とんでもなく優しいに決まってるだろ。そんな手間のかかる面倒なこと、普通母親でもずっとは出来ないわ。彼女も母親である前に人間だから。

すべてはそう。上司である前に、年上である前に、社長である前に、有名人である前に、憧れのあの人である前に、みんな人間だから。誰もお前を救わない。だから這い上がるしかない。這い上がることを諦めた時にはじめて本当の意味で死は成立する。

特に心配しなくてもいいのだが、わたしは死を美化するのは性にあわない。諦めてしまいたいと思った回数の方が多い人生だったが、近頃、大人になって父の自決を呑み込めたときに、なんて愚かで浅はかな男だったんだと心から軽蔑した。

そして、他者に助けを求めることはとても傲慢で自分勝手なことなのだと、わたしは思考を確立した。

わたしは誰を救うことも出来ないし、誰かに救われることもない。わたしの館にはもう誰も招待しない。